小説の中のバラ7 チムニーズ館の秘密 アガサ・クリスティー

旧古河庭園 洋館
旧古河庭園 洋館

アガサ・クリスティーを読み直している中で、以前は意識していなかったのだが、わりと重要な場面でバラが登場する作品が時々あることに気がついた。クリスティーはガーデニング好きであったらしいが、バラも相当好きだったのではなかろうか。

原題 THE SECRET OF CHIMNEYS 1925

チムニーズ館の秘密 早川書房 クリスティー文庫 2004年

※ 画像の旧古河庭園のバラは記事中のバラとは無関係です。

あらすじ

アンソニー・ケイドは、ジンバブエのブラワヨの旅行会社で働いているときに、偶然出会った旧友から、バルカン諸国のヘルツォスロヴァキア(架空の国)の首相であった、故ステルプティッチ伯爵の回顧録の原稿をロンドンの出版社へ届けるよう頼まれる。頼みを引き受けたアンソニーは、回顧録を出版させたくない勢力に原稿を狙われ、ヘルツォスロヴァキアのミカエル王子の殺人事件にも巻き込まれる。

ポアロもミス・マープルも登場しないノンシリーズの一冊だが、本書に登場するロンドン警視庁のバトル警視は、このほかにもいくつかの作品に登場する。また、この後に出版された「七つの時計」には、この作品の舞台となったチムニーズ館や館の主人のケイタラム卿、その娘のアイリーン(愛称バンドル)が再び登場する。

ミステリーというよりも、冒険ものという味わいであるが、なかなか楽しめる作品である。

バラが登場するのは、物語の終盤、アンソニー・ケイドがチムニーズ館のローズ・ガーデンに行き、それまでに何度か会ったフィッシュという人物に出会ったところである。

「このきれいなのをごらんなさい。」フィッシュは身をかがめて、特別に美しい花を指した。「これは多分マダム・アーベル・シャトネーです。そう、そのとおりです。それからこの白バラは、戦争前はフラウ・カール・ドルスキと呼ばれていました。いささか神経過敏ですね、でも愛国心からそうしたのでしょう。ラ・フランスはもう、一般にもよく知られていますね。あなたは赤いバラが好きですか、ケイドさん? この真紅のバラは-」(チムニーズ館の秘密)

「この真紅のバラ」の名は、「リッチモンド」(Richmond)

イギリス、ディクソン社の1912年作出のハイブリッドティーの初期の品種である。残念ながら、今までのところ、リッチモンドの画像は見つけられていない。枝変わりのつる性のリッチモンドの画像はあったので、リンクを貼っておく。

リッチモンド(つる)の画像はこちら(外部サイト))

名前の挙がっている他のバラは、今でも流通しており、バラ園に植えられていることもある。マダム・アベル・シャトネイは、作出年1894年以前のピンク色のハイブリッドティー。フラウ・カール・ドルシュキは、白いつるバラで作出年1901年のハイブリッドパーペチュアル。1867年作出のラ・フランスは、ハイブリッドティー第1号として有名。

マダム・アベル・シャトネイ Mme. Abel Chatenay の画像はこちら(外部サイト)

フラウ・カール・ドルシュキ Frau Karl Druschki の画像はこちら(外部サイト)

ラ・フランス La France の画像はこちら(外部サイト)

20世紀初頭のヨーロッパ

今の日本で「チムニーズ館の秘密」を読んでも、荒唐無稽な娯楽小説と感じてしまう。

しかし、本書が出版された1925年当時のイギリスを想像してみると、意外と荒唐無稽とばかりもいえないような雰囲気もあったかもしれない、と思ったりもする。

20世紀初頭の欧州の国際情勢は、クーデターや革命、紛争、第一次世界大戦といった激動のさなかにあり、特に、バルカン諸国の政情は不安定だった。セルビア王国では1903年に国王と王妃がクーデターで殺害され、ボスニアの首都サラエヴォでは1914年にオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド大公とゾフィー妃がセルビア民族主義者の秘密組織に属するセルビア人学生に暗殺され、第一次世界大戦の発端となっている。

「チムニーズ館の秘密」の中でニコラス4世と王妃が殺されたエピソードなどは、1903年のセルビア王国のクーデターの史実を踏まえているのではないかと思われる。

また、ヴィクトリア女王の王女やその娘たちは、ドイツを中心とした欧州各国の王公の妃となっており、当時の英国は欧州の国際政治に深く関与していただろう。ギリシャ国王ゲオルギウス1世(在位1863年-1913年)の四男アンドレアス王子の妃もヴィクトリア女王のひ孫であり、1922年のギリシアのクーデターの際、王子一家は英国海軍の軍艦でギリシアを脱出している。1922年といえば、「チムニーズ館の秘密」出版の3年前であり、クーデターや暗殺事件は、はるか過去の話というわけではない。

クーデター後にギリシアの王位についたゲオルギオス2世もその後亡命を余儀なくされ、亡命期間中ロンドンに滞在していたこともあり、第二次世界大戦中には、ユーゴスラビア王国のベータル2世が英国に亡命している。革命で祖国を離れた亡命ロシア貴族も、ロンドンやパリに大勢いたようだ。

こういった現実が身近にあるとなると、ロンドンを舞台にした亡命王族をめぐる陰謀を描いた小説も一層楽しめたのではなかろうか。

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