ユダヤ教の主要な宗教的記念日に過越(すぎこし)がある。エジプトの地で苦難にあっていたイスラエルの民が、モーセに率いられてパレスチナへと脱出したことを記念する期間である。2019年はグレゴリオ暦でいうと4月下旬のようだ。
童話、民話、妖精譚の類は子供の頃から好きで結構読んだが、ユダヤの民話と銘打った民話集は昨年2018年に初めて読んだ。息子と図書館に行ったときに、子供の本のコーナーで目にとまった本である。読んでみて、これまで読んできた民話などと少し趣が異なる話が多く、興味深かった。
お静かに、父が昼寝しております ユダヤの民話 岩波少年文庫 2015年12月
ニズウォティのモイシェ
特に印象に残っているのが、「二(2)ズウォティのモイシェ」である。これは、ポーランド・ロシアの話で、ズウォティはポーランドの通貨の単位である。モイシェという名の若い男が、「もう一人の雇人と比べて、自分の賃金が少ないのはどうしてか」と主人に聞き、主人がそれに答える話である。
現代に置きかえると、待遇に不満を抱く若い会社員が、上司に「同僚は評価されているのに、自分は評価されていないのはおかしいのでは?」と訴えたら、仕事ぶりの違いを指摘されたというような話なのだ。
最近のビジネス本や自己啓発本を読んでいるような印象で、これが民話として語られていることにちょっと驚いた。
笛と羊飼いの杖 そのほか
「笛と羊飼いの杖」は、王にとりたてられた大臣が、妬まれないように身を処する話である。ユダヤの民が苦労してきた歴史と、危機管理意識が垣間見られる気がした。
「たまご一個とメンドリ千羽」は、過大な請求をする宿屋の主人の話。この話や、「真珠の首かざり」、「犬ですらうなり声をたてない」は、不当な請求や扱いをされるが、裁判により救われる話である。不当な扱いをされることへの用心や覚悟とともに、裁判の公正さへの希望が込められているのかもしれない。
「酒の樽」は、自分ひとりならばれないだろうと思ったことを、みんながしていたという話。「嘘の力」とともに、短いがインパクトのある教訓話である。
「黄金のテーブルの脚」は、来世の恩恵の先取りをあきらめる話だが、なんというかこのシビアさからは、ユダヤの民が契約というものをどのように考えているかということを、考えさせられる。
「父への愛は塩の味」は、シェークスピアのリア王と3人の娘のエピソードが思い出されるが、結末はリア王とは随分違う。
「塔に閉じ込められたソロモン王の姫君」は、ソロモン王が、占いで出た娘の結婚相手が望ましくなかったので、結婚を防ごうと塔に閉じ込めた話。にもかかわらず、娘が密かに結婚していたことをソロモン王が知ったときにどうなるかと思ったが、ソロモン王は人智の及ばぬことがあるのだと事態を受け入れる。
「腹をすかせたオオカミと知恵者のキツネ」は、抜け目のないキツネがオオカミをだましてハッピーエンドかと思いきや、最後の一文がちょっと意外だった。楽観が許されない世界観を現しているのだろうか。ユダヤの民の歴史においては、一難去ってまた一難ということの繰り返しであったということかもしれない。
本のタイトルになっている「お静かに、父が昼寝しております」は、ユダヤ教徒ではないが両親をなにより大事にする商人に感心する話。
このほかの最後の何話かは、旧約聖書の「創世記」からとられているが、旧約聖書を読んだときの記憶にあるものよりも話しにふくらみがあるように思う。解釈なども含まれているのだろうか。