「聖の青春」(さとしのせいしゅん)は、早世した将棋棋士、故村山聖九段(追贈。亡くなったときはA級八段)の生涯が書かれたノンフィクション小説だ。
「弟子・藤井聡太の学び方」の中で師匠の杉本昌隆八段が、村山九段の思い出を述べていたり、「師弟」の中で、森信雄七段が、最初にとった弟子である村山九段の思い出を述べていたりするのを読んで、どんな棋士だったのだろうと興味がわき、読んでみた。
2016年に映画も公開されたが、映画は見ていない。
著者は、日本将棋連盟の元職員(「将棋世界」編集長など)で、棋士とも交流があり、村山九段の師匠の森信雄七段とも親しくしていた人物だけに、読み手にも登場人物が身近に感じる描写が多い。
聖の青春 著者 大崎善生 角川文庫 2005年6月(単行本は2000年出版。2002年5月に文庫化(講談社文庫))
(以下、棋士の段位は2021年3月現在のものとした)
病床で将棋に出会う
村山九段は、1969年6月15日、広島県に生まれ、5歳のときに腎臓の病気であるネフローゼ症候群を発症し、入退院を繰り返す生活の中で将棋に出会う。
将棋は、安静にして長い時間を過ごさなければならない状況で学ぶのに合っていたのかもしれない。健康なら将棋には見向きもしなかったかもしれず、出会いというのは不思議なものである。
小児のネフローゼ症候群は原因が不明のことも多いようだが、村山九段の兄や両親が、発病前の出来事や、発熱を繰り返すようになったときに近所の医院での風邪の診断を信じて時を過ごし、早めに大きな病院を受診しなかったことなどに、それぞれに後悔を感じている様子が切ない。
師匠との絆
最も印象に残ったのは、村山九段と師匠の、森信雄七段(当時四段)との強い絆である。師匠が弟子の髪を洗ったり爪を切ったりというエピソードには少々驚いたが、村山九段が、人情のある懐の深い師匠に出会えてよかったと思った。
それにしても、1982年、村山九段が中学1年生の秋に、森七段に入門して奨励会入会試験を受け、5勝1敗という好成績を挙げながら入会できなかった経緯には腹が立った。読んだ限りでは、奨励会入会試験を受けたいと村山父子が最初に相談した相手が、奨励会入りを念頭に親交のある棋士に紹介していながら、村山父子にはそのことを言わず「まだ早い」と止めただけだったのがよくなかったと思う。しかも、入会試験で5勝1敗の成績を挙げられるのだから、「まだ早い」という棋力でもない。
棋界であれ、芸事の世界であれ、一般社会であれ、面子がどうこうという話は嫌いである。
後から経緯を知った師匠の森七段は、自分の師匠や知己の棋士に根回しをするものの、その年の入会はかなわず、村山少年は絶望し、ネフローゼが再発し、入院してしまう。
森七段は、自分が身を引けばよかったのではないかと考えるものの、村山九段との縁を感じ、やはり自分が師匠になるという気持ちで、翌年の入会試験までの間、村山九段を大阪に引き取る決心をする。
翌1983年、森門下として晴れて奨励会に入会、3年後の1986年に四段昇段。
西の村山
四段昇段後は、難病を抱え、病気による不戦敗もありながらも勝ちを重ね、1995年4月A級に昇級。関東に移籍するまで、東の羽生、西の村山、と羽生善治九段のライバルとも目されていた。
時代もあったのか、麻雀や酒も相当やっていた時期もあるようだ。将棋のみに精進していればという見方もあるかもしれないが、本人は、どうやっても長い命ではないと感じていた節もあり、羽目を外したくなることもあっただろうと思う。師匠の森信雄七段が、村山九段の心情を思いやりつつ、飲み友達には「あんまり無理せんようにしてやってください。」と頼んで歩いていた話も切ない。
先崎学九段と飲んで倒れて救急車で運ばれたり、佐藤康光九段へのライバル心から、村山九段、佐藤九段、滝誠一郎八段の3人で飲みに行っても佐藤九段とは直接話しをしなかったりといった、同世代の棋士とのエピソードも興味深い。
1997年にB級1組降級、膀胱癌の発見・手術の後、A級に復帰するも、癌が再発。1998年8月8日、A級在籍のまま29歳で亡くなる。
亡くなる直前に、森七段が、村山九段が入院している広島の病院に見舞いに行きたいのに気を遣って様子をみていたこと、危篤の連絡を受けた森七段が広島に向かっている新幹線の中で、亡くなったと連絡を受けた場面は、涙が出そうになった(通勤電車で読んでいたので、困った)。
タラレバの話をしても仕方がないが、最初に試験を受けた年に奨励会に入会していれば(入会できる成績だった)、ネフローゼの再発もしなかったかもしれない、棋士になるのも1年早かったかもしれない、その後の活躍ももっとあったかもしれないと思うと、惜しい気がする。